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華語健康インフォメーション(台湾健康インフォメーションウエブ)-老医のホームシリーズ
(一九九六年三月創刊)
老医のホーム- Dr. 呉昭新の Home Page
俳句を語る

オーボー真悟-|||||- (by Jau-Shin WU, M.D., Ph.D.)


ウエブマスター“老医”特別医学貢献奨個人奨受賞 (1999)-(国家生物技術及び医療保険委員会)

《世界の俳句》
有季‧無季 定型‧自由律 花鳥諷詠‧人情世故
  時事‧社会 客観写生‧主観感動
 みんな みんなの母語でよむ俳句

#お知らせ!!
e-book (オーボー真悟の俳句、短歌、エッセイ集)を刊行しました、ご興味のある方は下記のアドレスhttp://www.olddoc.net/oobooshingo-poem.pdf をプレスして下さい、無料でダウンロード出来ます。                    
 (オーボー真悟)
下載次數:
すみません。サーバーの不具合で2016の一月から今日〈10月24日)まで脱落がありました。

(Last updated July 17, 2020)

記事数: 208 サマリー不要 キーワードサーチ: /全11ページ

point(214) <俳句に良し悪しはない> Chiau-Shin NGO; 呉昭新;オーボー真悟;  閲覧人数: 192  (2020-07-17)
キーワード:Chiau-Shin NGO; 呉昭新;オーボー真悟;
 始めたばかりの方はいざ知らず、俳句を詠んで一年も経てば作品に良し悪しはない,ただその場にて同じ感性を持ち,同じ経験をし,共感する方がいるかいないかだけだ,それが <俳句とは詠むと読まれる方が一緒に詠む短詩> だと言われる由縁である。だから俳句会で多くの方に選句されたからと言って <秀句> と言う訳ではない,共感する方が,即ち似た境遇の方が多かったというだけだ。喜ばしいのは似た境遇の人たちが多いとお互いに悲しみも喜びも容易に共にできることだ。これがともに俳句をよむ楽しみなのだ。   (全文を読む)

point(213) <俳句海を渡って短歌になる> Chiau-Shin NGO; 呉昭新;オーボー真悟;  閲覧人数: 154  (2020-07-17)
キーワード:短歌;俳句;Chiau-Shin NGO; 呉昭新;オーボー真悟;情報量
しばらくご無沙汰していた国際俳句協会(HIA)の<世界の「俳句・ハイク」事情>の<中国>部分を覗いてみました。ご無沙汰してもう6、7年になる。ご無沙汰したのもそれなりの理由がありました。漢詩また俳人でもある大先生が短歌本質の短詩を俳句としてご丁寧に説いて外国人に紹介していたからです、それも一回だけでなく6回に渡って滔々と述べていました。
  覗いてみてがっかりしました。相変わらずそのままだったから。一歩退いて自分が間違っているのかもと考えてみましたがそうでもなさそうだ。
  俳句と短歌は日本では古来からはっきり区別されていて同人協会の経営も相拘わることなく行われている。内容の量と質もはっきり違う。575と57577と情報量も違うし、瞬間感動と抒情詩と質も違う、叙情は俳句でも出来ないことはないが完全なる叙情をなすのは一般に難しい。もともと575と57577は文字数の違いではなく17音と31音の違いなのだ、だが各国の言葉は一語一語の音数が違う、日本語はポリシラブルであるが華語はモノシラブルなので日本語のポリシラブルの音数をモノシラブルの華語にそのまま当てはめると情報量が平均の倍以上になってしまい簡単に抒情詩を詠むことが出来るようになり、575音で十分日本の短歌の情報量相応の短詩が詠めるようになり、自ずから俳句を詠んだつもりで短歌の情報量と本質になり俳句の本質とは違う短詩になってしまっています。   (全文を読む)


point(212)〈俳句の相談〉一物仕立てか、取り合わせか 長谷川櫂  閲覧人数: 348  (2020-04-11)
キーワード:取り合わせ;一物仕立て;俳句の構造;
2017年10月22日
【相談】
一物仕立と取合せとのどちらに属する句か? はっきりしない領域があるように思えます。たとえば次のような句です。

①本降りとなつてをりけり昼寝覚 黛 執
②遠山に日の当りたる枯野かな  高浜虚子
③かなしみはしんじつ白し夕遍路 野見山朱鳥

これらの句は一物仕立てか取り合わせか、どう考えたらいいでしょうか。

【回答】
すべての俳句は一物仕立てと取り合わせのどちらかに分類されます。それは内容と形によって次の4つに分けられます。

*一物仕立て
(A)1つのことを1本で詠んでいる句(句中に切れはない、典型的な一物仕立て)
例:行春を近江の人とおしみける(芭蕉)
(B)1つのことを2つに分けて詠んでいる句(句中に形だけの切れがある、一物仕立ての変型)
例:朝がほや/一輪深き淵の色(蕪村)
*取り合わせ
(C)2つのことを2つに分けて詠んでいる句(句中に切れがある、典型的な取り合わせ)
例:降る雪や/明治は遠くなりにけり(中村草田男)
(D)2つのことを1つにつないで詠んでいる句(句中に隠れた切れがある、取り合わせの変型)
例:六月の雨さだめなき/火桶かな(石田波郷)

この4つについては旧著『一億人の俳句入門』(講談社)、『一億人の「切れ」入門』(角川書店)にも書きました。このことをしっかり頭に叩きこんでいないから、『俳句』8月号のような混乱が起こるのです。
よく問題になるのは(B)と(D)です。(B)は一物仕立てなのですが、句中に形だけの切れがあるので取り合わせのようにみえます。逆に(D)は取り合わせなのですが、句中の切れが隠れているので一物仕立てのようにみえます。要は句の形に惑わされず、内容をよくみよということです。

一物仕立てか取り合わせか、はっきりしない句の例としてあげておられる①と③は(B)一物仕立てです。①は昼寝が覚めたら雨が本降りになっていたということです。③の「かなしみ」は遍路の白装束のことです。
一方、②は(D)取り合わせの句です。この句、遠山に日が当たっていて、あたりいちめんが枯野であるというのです。「遠山に日の当たりたる」のあとに切れが隠れています。

ここで虚子の枯野の句についていっておくと、取り合わせでることを明確にするためには下五には日の当たる、当たらないに関わりのないものがこなければなりません。虚子の句では枯野という日の当たりうるものを置いたために、遠山にも枯野にも日が当たっているような曖昧さが生じます。この句は名句といわれていますが、取り合わせの句としては不完全な句です。   (全文を読む)


point(211) 種田山頭火と尾崎放哉。俳句と心中し。自由律俳句(六) 高畑耕治  閲覧人数: 286  (2019-02-28)
キーワード:高畑耕治; 種田山頭火;尾崎放哉; 自由律俳句;
 今回からは、自由律俳句を生きざまそのものにして究めた、二人の強烈な個性俳人、種田山頭火と尾崎放哉を通して、自由律俳句を見つめます。
 二人について、山下一海氏が出典『俳句の歴史 室町俳諧から戦後俳句まで』に書いている以下の言葉は、二人を深く理解していると感じると同時に、文学・詩歌と作者の生きざまについて、考えさせられます。
 以下、出典●からの引用

  山頭火と放哉 
 「山頭火と放哉は、世を捨てた動機や態度、またそれぞれの資質にかなりの違いがあるが、世を捨てて俳句に自分の心境を映し出し、俳句にささえられながら世を去ったというかたちに共通するものがある。この二人のように、自分の心境をそのまま表そうとするには、口語自由律俳句は、実に適切な詩型であった。この二人は、自分と俳句を完全に一つのものにしてしまうことによって、その作品が人々の心を打つことができた。かれらの俳句は、自分の一生をまるごと引き換えにした成果であったので、当然にそれは、その人一人限りの問題で、それが他に受け継がれるというようなものでもなかった。山頭火と放哉の俳句がこれほど人に詠まれながら、口語自由律俳句自体が定型俳句ほどには世に広まらないところに、口語自由律俳句の問題の根幹があるといえるだろう。」
(引用終わり)。

 「自分の心境をそのまま表そうとするには、口語自由律俳句は、実に適切な詩型」、この言葉はまさにその通りだと言えます。口語自由律俳句は、文学表現の根幹にある、修辞と虚構性を、極限近くまで失くすことを志向する試みだからです。
 「心境をそのまま表そう」とした表現に魅力がありうるとしたら、表現者の「心境」そのもの、その「心境」が生まれ出たその人の生き方そのものが、読者の心を惹きつけ、感動させる何かをもっている以外にありません。
 「かれらの俳句は、自分の一生をまるごと引き換えにした成果であった」、山頭火と放哉それぞれの年譜を詠むとこの言葉に納得します。とても激しく生きぬき、俳句と心中した二人に、私もまた強く惹かれます。
 なぜでしょうか? 二人とも、もうそう生きることしかできなかった、そのように生きることだけが二人にとって自分であることだった、と感じてしまうからだと私は思います。

 次に、二人が師と仰いだ井泉水が、尾崎放哉(おざき・ほうさい、明治十八年・1885年~大正十五年・1926年、鳥取市生まれ)の死後に編まれた句集に寄せた言葉を引用します。
 放哉は、生前には一冊の句集も刊行していません。亡くなった後、彼の句の本当の価値を世に伝えようとする強い意思が込められた井泉水の言葉は、詩の、俳句の、本質を射抜いていて、感動します。
 以下、出典■からの引用、、、、、、
  (全文を読む)


point(210) 俳句と伝統俳句とポピュリズム 呉昭新;オーボー真悟;Chiau-Shin NGO;  閲覧人数: 298  (2019-02-01)
キーワード:呉昭新;ポピュリズム; 伝統俳句
 黄霊芝師が亡くなってからはや三年、フエイスブックでは旧作を毎年その日になれば親切にまた持ち出してくれるようになっているので今年もまた自分の当時の思いの旧作を読み返して、しみじみ人情の薄いのに哀れを感じた。黄霊芝師のお弟子さんたちは師の生涯の最後の遺言ともいえる一番大事な一文に(読んだかどうかは知る由もないが)何の反応もないのだ。師が自身の一生の念願である俳句の真髄を求める心をひた隠しに隠して、ただ市井のありふれた俳句結社の主宰として弟子たちのために尽くしたことにほんの少しの感謝の気持ちも感じないのだ。今でもただ自分たちの都合のために結社を続けているだけなのだ。師の究極の念願を全うしようとはせず、ありふれた市井の俳句結社の主宰で済まさせようとしている。かって自分が言うたように日本返りの台湾人の日本語の復習場と在台日本人の友好クラブにして仕舞おうとしている。戦後台湾唯一の日本語俳句結社も日本本国の月並みの俳句結社に過ぎないのだ、残念至極。
    よく考えてみると、問題の起こりは日本の俳人たちが<俳句>(HAIKU)の定義をはっきりさせないからだ。日本国内なら有耶無耶ではぐらかしても構わないが、外国に顔を出す以上そうはゆかない。多くの俳人が所謂の<伝統俳句>が俳句の一部であり全部ではないことをよく知ってはいるが、ポピュリズムの関係で、大らかに言い切れないと言う嘆きか。所謂の伝統俳句が果たして伝統であるかどうかは別として、確かに所謂の伝統俳句は子規の二大弟子のひとり虚子の創案になる日本特有の日本人ならではの俳句の一派であり、多くの日本人に愛される俳句である。だがまた日本人のポピュリズムによる俳句の一つの形でもあるのだ、それは俳句唯一の形ではなく俳句の一部であるのが真実なのだ。それを取り間違えてそれのみが俳句だと思っている方が日本全国いや全世界に自分の考えを推し進めているのだ。日本のポピュリズムが俳句をして難しい立場においてしまったのだ。あまり日本の歴史風俗習慣を了解していない外国人が戸惑うのも無理はない。それをまた一部の真の俳句の本質真髄を知らない日本人が、したり顔で説明や教えるので益々こんがらがってしまう、で真に俳句を知る俳人はポピュリズムにたじたじと押されて、又はある方は結社主宰の生業に影響するのを気遣って、口を閉ざして目をそらしていると聞く。よく考えてみると確かに俳句を指導することによって生活を贖っている方もいるのは事実だ、また見栄や教養のため俳句を詠んでいえる方も多いいのも事実。
   だが黄霊芝師は違う、彼は台湾の台南でも一二を争う大資産家の末っ子で、戦後本国に送還される日本人から一荷車満載の書籍を買い取ったという逸話もある位の資産家である故、生活のために市井の俳句主宰を務めたわけではない。彼は病身であるがため学生時代一番上の姉の世話になっっていた、彼はその姉の俳句グループの世話をしたのである、そしてそれは市井の芸事俳句グループだったのだ、彼はその天才の資をもって市井の月並みの芸事俳句結社の主宰を務めたのである。   (全文を読む)


point(209)生き残る俳句 秋尾敏  閲覧人数: 309  (2019-02-01)
キーワード:秋尾敏;池西言水;山口誓子;正岡子規;
1 誤読の力
 俳句はなぜ生き残ってきたのだろう。明治の文明開化も戦後民主主義もあっさりとすり抜け、今またこのグローバル社会を、俳句は平然と生き延びようとしている。すでにはやりのインターネットにも俳句は住み着き、海外のホームページにさえしばしば顔を見せるのである。時代を越え、国境を越えて生き続ける俳句のこの生命力の根源はどこにあるのだろう。

木枯の果てはありけり海の音     池西言水(ごんすい)
海に出て木枯帰るところなし      山口誓子

 この二つの句の間には三百年という時の隔たりがあり、語られている世界も大きく異なる。作者の意図を言えば、言水は、海に至って木を枯らすことができなくなる「木枯」という言葉の物語をまず詠(よ)んだのである。一方誓子は、木枯らしを自己に同化させている孤独な現代人の心を詠んだ。
 しかし私たちは、言水の句にも現代人の心に通う寂寥を読みとることができる。それはこの句が、言水の意図した言葉の論理を越えて、鮮烈なイメージを生成する装置ともなっているからだ。私たちは、言水の句が生み出してくるイメージに、私たち自身の意識に即した現代の意味を勝手に付与して読んでいるのである。
 俳句は、イメージを生成し始めたとき、永遠の命を獲得した。人々は、それぞれの時代の意味を作品に与え続けた。それは誤読ということであったかもしれないが、だとすればその誤読が、俳句を生き延びさせて来たのである。
2 選句の力

 選句は、俳句という文化を支える重要な要素である。しかし、その意義が今まで十分に認識されてきたとは言い難い。

三千の俳句を閲(けみ)し柿二つ          正岡子規

 この句に、選句に飽き飽きしている子規の心を読もうとする人がいる。その人も選句をくだらない行為と考えているのであろう。個人の内面の価値を絶対視する立場からすれば、人の作品を取捨し、ときに手を加えさえする選句という行為は、許し難いものであったのかもしれない。
 だが選句という行為は、個人の言葉を外部の言葉につなぐ通路となって、人の内面を形成する力となってきた。『汀女句集』の序に、虚子の「選は創作なり」という言葉がある。それは、虚子が汀女の句の創造に荷担したという意味ではない。虚子は選句という行為を通して、中村汀女という俳人を作り上げたと言っているのである。
 選句には、異なるふたつの価値観が同居している。ひとつはその句が俳句と呼ぶにふさわしい姿をしているかということであり、もうひとつはその表現が独自の輝きを持っているかということである。一方で一般性を問いながら、他方で特殊性を問うというプロセスの中に、個人の言葉と社会の言葉との間合いを計り合う選句の本質がある。
 近代の言葉は、個人の内面を形成するというテーマを持っていたが、その内面というものは、外部との関係性によって形成されていくものなのである。

行春や選者を恨む哥の主 蕪村   (全文を読む)


point(208) <黄霊芝主宰の俳句観> 台湾俳句史補遺 呉昭新;Chiau-Shin Ngo; オーボー真悟;  閲覧人数: 232  (2019-01-31)
キーワード:黄霊芝;俳句観;俳句史;
先日暫く無沙汰していた月例会の句会に顔を出した。 毎月出句はしているが選句はしていない(通信選句)、 アマノジャック年寄りである。 と言うのは主宰の黄氏が体調を崩してもう四年ばかり休んでいらっしゃり、 句会は互選で高点句を競っているだけで他には何も得るところがない。 高得点は何を意味するのか? 同じレベルの方が多い、 よく言うて同じ感覚趣味を持った方が多いという事だけだ。 だがいくら私が歳をとっていると言っても、より年長の方方が10人以上もいらっしゃり、 そのうえ皆俳歴50年以上の方ばかり、 小生のようなひよっこでは息をすることさえ控えなければならない場である。 まさしく典型的な所謂の伝統俳句の句会の一景である。 そこでは字余り、 字足らず、 破調、 季語が動く、 つきすぎ、 離れすぎ、 説明文、それがどうした…などなどの言葉が飛び交う。
    だが、若い人の台北俳句会に関する研究論文を読んで見るとその昔黄氏が元気でいらっしゃった時はそうでなかったらしい。 私の入門がおそすぎたのだろう、 惜しむらくは黄先生の素晴らしい主宰の場には浴する事ができなかった事だ。
   でも、 今回の句会に出たのは幸運だった。 というのは下岡友加氏編著2015年 8 月出版の <黄霊芝小説選2> を頂いたからだ。 2012年発行の第一集では黄氏の日本語小説10篇と評論1篇が収められていた、 そして今回の第二集では小説7篇、 童話4篇と黄氏最新の書き下ろし原稿1篇である。 小説はすでに読了済みだので、 特別に注意はひかなかったが、 問題は書き下ろし原稿である。
タイトルは <俳句自選百句>、 編著者下岡氏は <黄の文芸活動の一つの締めくくりと位置づけられる。 決して読みやすい句ばかりとは言えないが、 句の前に置かれた「はじめに」では六十年に及ぶ句作のなかではぐくまれた、 黄の俳句観が平明に説かれており、 必読の文であろう。> と評釈している。 そしてもっと私を驚かせたのは、「はじめに」の冒頭にある <これらの作からもわかるように私は必ずしも五七五の定型に臣服していませんし、季語の虜になってもおりません。> と言う黄氏の書き出しである。 つづいて俳句の定義は最短の詩であるとし、 またその短いというのは言葉数が少ないのと内容もまた少ないと言っている。 また黄氏の従前の <俳句相撲説>を強調するとともに中国の甲骨文にある夥しい数の卜辞の一片 <九日甲寅 不酒 雨> を例に俳句の理念は三千数百年前の中国殷代にすでに存在していたとしている。 そして俳句で提起される <詩、写生、リズム、季語> について遠くは須佐之男命、 そして近代以後は子規、 尾崎放哉、 中村草田男等の句を例に説明を加え、 中国の毛詩、漢詩にまで言及している。
 そして最後に< もう一言加えたい。 五七五は定義ではない。 そして同じ文芸界に属する小説の世界では定型に縛られることなく、 むしろ一作一作風をこそ手柄とするのではあるまいか。> と締めくくっている。,,,,   (全文を読む)


point(207)正岡子規論 高島 萌  閲覧人数: 336  (2017-07-22)
キーワード:正岡子規: 高島 萌:
はじめに
 明治初頭、すでにただの遊びに廃れ、その存亡も怪しくなりつつあった、俳句・短歌を文学芸術に仕立て直したのが子規であり、現在の日本語の基礎の礎をなしたのも、また子規その人である。当時は勿論、後世への影響も多大な、文学史上に残る大事業は子規という名前のとおり血を吐きながら成されたことであった。
 晩年には、身動きすることすらできない、寝たきりの病床生活の中でも、毎日執筆を続ける、その圧倒的な精神力は、いったい如何ほどのものだったのだろうか。また、その力の源とも言うべきものは何だったのか。
 その寝たきりの病床生活の果てに、何を思い、見て、この革新にまで至ったのだろう
か。革新の内容を追いながら、子規のまなざしの向こう、そして残された革新の影響を
探っていきたい。
一、文学者子規の誕生
 俳人であり、歌人であり、散文家。本名は常規、幼名処之助、また升。別号獺祭書屋主人、竹の里人、その他多数。慶応三年九月十七日、伊予温泉郡藤原新町(現在松山市)に生まれる。三十六歳という短い生涯を日本伝統文学の革新に捧げた、大文学者正岡子規。
しかし、子規自身はじめから文学者を目指していたわけではなかった。ここで言う子規の誕生とは、単に正岡常規個人の誕生のことではなく、文学者を志す意識の芽生えをいう。
この章では、子規が文学者を志すまでを追うにあたり、子規の人間的基盤、特に子規のもともとある人間性、精神性、そして病気とのかかわりの三つの観点から探っていきたい。
(一) = まれに見る精力家子規
文学者を志すまでに、子規にはなりたいものが文学者のほかにいくつもあった。
明治十五、六年子規十六、七歳のころ、まず子規は政治家たろうと志す。自由民権運動の影響を受けて、学業をなおざりにして演説に熱中し、「自由何クニカアル」「天将二黒塊をアラワサントス」などの演題で政治を論じ、あまりに激しい演説振りに監督から弁士中止を命ぜられることもあった。
そして明治十六年五月、上京の志に燃えていた子規は、東京にあった母方の叔父加拓川に訴え、その許しを得て、中学を退学し、上京、東京大学予備門に入学する。入学当初、将来の夢は「大政治家」であったのだが、十八年ころには、「壮士」の講釈に魅せられ、哲学を目的にしようと考える。この頃の子規は詩文を作ることはその次で、人生第一の目的とは考えていなかったようである。二十二年ころは、一転して志望が審美学に向かい、坪内逍遥・二葉亭四迷以下の新文学勃興の機運に触れ、特に幸田露伴の『風流仏』に感嘆して、自分でも小説『月の都』を執筆、その草稿を持って二十五年二月露伴を訪れるが、あまり芳しくない評価を受け、やや小説家の志望を断念する。その年五月、郷党の後輩虚子への手紙に、「僕は小説家となるを欲せず、詩人とならんことを欲す」と言い、同じく碧梧桐への手紙に、「人間よりは花鳥風月がすき也」と言っている。このときに子規は、俳句作家になることを宣言したのである。
このように文学者たろうと決心するまでに、子規の将来の展望は政治家、哲学者、小説家と、実にさまざまでめまぐるしく変わり、そのひとつひとつをあきらめる。子規が俳句作家となったのは、それまでのいくつもの志の断念の上に立っているのだ。
また、父早世のあと、子規六歳のころ、外祖父の儒者大原観山に漢学を学び、その吸収も大変よく、期待を一身に受けたいそうかわいがられた。そんな子規はややもすると、同好のもの同士集まり漢詩漢文を作り、山水画を描き、「桜亭雑誌」(明治十二年四月、子規十三歳)はじめ、多数の回覧雑誌を作る。後々子規の文学活動の基本になる、仲間同士切磋琢磨していくグループ活動の基礎が、このころからうかがえる。また、稗史小説に読みふけり、しばしば寄席に通い、軍談を聞きに行った。また、大学予備門入学後すぐに子規はベースボールに熱中し、仲間内から「ボール狂」と呼ばれていた。「名キャッチャー」と知られ、率先して中心になり寮生たちを集めては、しばしばベースボール大会を開いいた。
若年時代子規はとかくその関心の幅が広く、また、多方面に高い才を見せた。しかし、やるとなれば徹底して打ち込む。そして、行動力があり、何か行動を起こせば必ずその中心にいる。後の大文学者子規はもともと、文学のみにとらわれない、まれに見る精力家なのであった。
(二) = 子規の精神背景
 子規の父正岡常尚、通称隼太は松山藩御馬廻加番(領主久松氏の馬側に牙で付き添い、護衛にあたる小姓組)で、食禄十四石の下級武士であり、外祖父大原有恒(観山は号)は松山藩学教授を勤めた、松山藩でもっとも偉大な学者であった。松山藩は幕末の政治的な揺れ動きの中で、終始佐幕側についていた。......   (全文を読む)


point(206) 去来抄 ウイキぺエデイア  閲覧人数: 680  (2017-03-13)
キーワード:去来抄;
『去來抄』(きょらいしょう)とは、向井去來が松尾芭蕉からの伝聞、蕉門での論議、俳諧の心構え等をまとめた俳諧論書。 1702年(元禄15年)頃から去來が没した1704年(宝永元年)にかけて成立したとみられる。1775年(安永4年)に板行されて世に流布したが、去來の没後70年以上を経ていたため、本書が真実去來の著したものであるか否かが問題視された[1]。 しかし有力な反証もまた無く、その内容は蕉風を語る上では事毎に引用されてきた[2]。 蕉風の根本問題に触れた批評が多く蕉門の俳諧書として良くまとまり、近世俳諧史上、蕉風俳論の最も重要な文献とされている[3]。 『去來抄』をはじめとする元禄の俳論は現代に比しても優れたところがあり、芭蕉研究者にも、初心に俳諧を学ぶ者にも良い指針となっている[4]。
目次 [非表示]
1 内容
2 成立
2.1 『去來抄』と『花實集』
3 諸本
4 脚注
4.1 人物
4.2 註釈
4.3 出典
5 参考文献
6 外部リンク
内容[編集]
安永板本は「先師評」「同門評」「修行教」の上中下3冊、伝来する写本は「先師評」「同門評」「故實」「修行」の4部4冊により構成される。さび・しをり・ほそみ・かるみ・不易流行・花実・本意本情・匂・位・面影など、蕉風の本質から付合の技法に至るまで多方面にわたる問題を取り上げている[5]。
先師評……   (全文を読む)


point(205)不易流行とは? 日本俳句研究会  閲覧人数: 618  (2017-03-09)
キーワード:不易流行;芭蕉;去来抄;俳論;子規;俳句;千歳不易;一時流行;
不易流行とは?
 不易流行とは俳聖・松尾芭蕉が「奥の細道」の旅の中で見出した蕉風俳諧の理念の一つです。
 芭蕉の俳論をまとめた書物『去来抄』では、不易流行について、以下のように書かれています。

「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず」
去来抄
 噛み砕いて言うと、

「良い俳句が作りたかったら、まずは普遍的な俳句の基礎をちゃんと学ぼう。でも、時代の変化に沿った新しさも追い求めないと、陳腐でツマラナイ句しか作れなくなるので、気を付けよう」

 ということです。
 例えば、明治時代に正岡子規は、江戸時代以来の陳腐な俳句を月並み句として批判し、俳句の革新を成し遂げましたが、彼はいきなり新しい句を作ったのではありません。正岡子規の初期の作品は、彼が否定した月並み句そのまんまです。
 子規はこれに満足せず、俳句のすべてを学ぶために、その歴史をたどって、俳句分類の作業を行ないました。
 このことがきっかけで、子規は歴史に埋もれていた与謝蕪村の句に出会って、その主観的な描写表現に魅了され、試行錯誤の末、写生による現実密着型の俳句を確立させました。

 正岡子規は、俳句の本質を学んでから、新しい俳句を目指すという、不易流行を体現したような人だったのです。

 不易流行の『不易』とは、時を越えて不変の真理をさし、『流行』とは時代や環境の変化によって革新されていく法則のことです。
 不易と流行とは、一見、矛盾しているように感じますが、これらは根本において結びついているものであると言います。

蕉門に、千歳不易(せんざいふえき)の句、一時流行の句といふあり。
是を二つに分けて教え給へる、其の元は一つなり。
去来抄
 去来抄の中にある向井去来の言葉です。
「千年変らない句と、一時流行の句というのがある。
 師匠である芭蕉はこれを二つに分けて教えたが、その根本は一つである」
 という意味です。

 難しい内容ですが、服部土芳は「三冊子」の中で、その根本とは、「風雅の誠」であり、風雅の誠を追究する精神が、不易と流行の底に無ければならないと語っています。

師の風雅に万代不易あり。一時の変化あり。
この二つ究(きはま)り、其の本は一つなり。
その一つといふは、風雅の誠なり
三冊子
 俳句が時代に沿って変化していくのは自然の理だけれども、その根本に風雅の誠が無ければ、それは軽薄な表面的な変化になるだけで、良い俳句とはならない、ということです。
(風雅とは蕉門俳諧で、美の本質をさします)

 これは俳句以外のあらゆることに応用できる普遍的な概念です。......   (全文を読む)


point(204)虚子の亡霊(五十八)『俳句の世界(小西甚一著)』の「虚子観」異聞(その四) 夜半亭  閲覧人数: 387  (2017-01-11)
キーワード:夜半亭;虚子;俳句;子規;小西甚一;第二芸術;斎藤茂吉;
虚子の亡霊(五十八)『俳句の世界(小西甚一著)』の「虚子観」異聞(その四)

○俳句の時代になると、さすがに「座」は消滅するけれど、むかし「座」があった当時の人的な関係は、師匠対門弟・先生対同人・指導者対投句者、ことによれば親分対子分といった西洋に類例のない構造として残り、それが結社として現在まで生き延びたのではないか。不特定多数の人たちを享受者にする西洋の詩とは、そこに根本的な差異がある。虚子が亡くなった後の『ホトトギス』をその子である年尾が跡目相続するなど、近代芸術にはありえないはずの現象も見られた。
(『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「碧梧桐の新傾向と虚子の保守化」

○短歌の世界では、子規系統の『アララギ』が歌壇の主流をなし、その中心となった斎藤茂吉は、子規の写生理論を修正・深化すると共に、近代的情感とたくましい生命力をもりあげ、歌壇を越えて広範な影響を与えた。これに対し、俳壇では、虚子によって継承された子規の写生は、再び、第二芸術へ逆行し、近代性を喪失した。
(『日本文学史(小西甚一著)』(講談社学術文庫))所収「近代」・「主知思潮とその傍流」

☆この「虚子が亡くなった後の『ホトトギス』をその子である年尾が跡目相続するなど、近代芸術にはありえないはずの現象も見られた」という指摘は、こと、小西先達の指摘だけではなく、「ホトトギス」の内外にわたって、しばしば目にするところのものであろう。そして、この「跡目相続」について、虚子側を容認するものは殆ど目にしないというのもまた、厳然たる事実ではあろう。しかし、虚子側からすると、このことについては、外野からとやかく言われる筋合いのものではないと、これは、高浜家の財産であり、家業であり、一家相伝のものであるという認識で、それが嫌ならば、「ホトトギス」と縁を絶てばよいのであって、はたまた、「その跡目相続が近代芸術にはあり得ない」などということとは別次元のものとして、議論は平行線のまま噛み合わないことであろう。まして、虚子自身は、「俳句第二芸術論」の容認者であり、極限するならば、いわゆる、「稽古事の俳句」をも容認する立場に位置するものと理解され、何で、こんな余所さまの自明のことに口出しをするのかと、それこそ、「余計お世話ではありゃしませんか」ということになるのではなかろうか。

☆これらのことについて、虚子はお寺の家督相続のような、次のような一文を、「ホトトギス(昭和二十八年一月号)」に掲載しているのである。

○ホトトギスという寺院は、何十年間私が住持として相当な信者を得て、相当なお寺となっているのでありますから、老後それを年尾に譲って、年尾の力でそれを維持し発展させて行くことにしました。私の老後の隠居の寺院として娘の出してをる玉藻といふ寺を選んだことは、私の信ずる俳句を後ちの世に伝える為には万更愚かな方法であるとも考へないのであります。併し乍ら、決してホトトギスを顧みないと云ふわけではありません。年尾の相談があれば、それに乗り、又、督励する必要があれば督励する事を忘れては居りません。ホトトギスと玉藻とを両輪として私の信じる俳句の法輪を転じて行かうといふ考へは愚かな考へでありませうか、私は今の処さうは考へて居ないのであります。(「ホトトギス(昭和二十八年一月号)」所収「消息」)

☆こうなると、三十五歳の若さで「文鏡秘府論考」により日本学士院賞を受賞し。単に、日本という枠組みだけではなく世界という枠組みで論陣を張った、日本文学・比較文学の権威者、そして、何よりも、俳諧・俳句を愛した小西甚一先達は、「斎藤茂吉は、子規の写生理論を修正・深化すると共に、近代的情感とたくましい生命力をもりあげ、歌壇を越えて広範な影響を与えた。これに対し、俳壇では、虚子によって継承された子規の写生は、再び、第二芸術へ逆行し、近代性を喪失した」と、「歌壇の斎藤茂吉に比して、高浜虚子は何たる無様なことよ」と、繰り返し、繰り返し、その著、『俳句の世界(小西甚一著)』(講談社学術文庫)や『日本文学史(小西甚一著)』(講談社学術文庫)で、この「現状を打破せよ」とあいなるのである。しかし、「虚子の亡霊」は今なお健在なのである。このインターネットの時代になって、ネットの世界でもその名を見ることのできる、つい最近の『人と文学 高浜虚子(中田雅敏著)』(勉誠社)の中で、「ホトトギス」の「虚子→年尾→(汀子)」の「跡目相続」は、「日本の伝統的芸能や文芸の継承」を踏まえたものであり、そして、またしても、虚子が文化勲章を拝受したときの、「私は現代俳句を第二芸術と呼んで他と区別する方がよいと思う。天下有用の学問事業は全く私たちの関係しないところであります」との、虚子の「俳句第二芸術」を固執する言が出てきたのである。この「天下有用ならず天下無用」の、その「天下無用」とは、かの芭蕉の「夏炉冬扇」と同意義なのであろうが、かの芭蕉は、自ら「乞食の翁」と称するところの無一物の生涯を全うしたところのものであった。それに比して、芭蕉翁を意識したと思われる虚子翁のそれは、何と「ホトトギス」に、余りにも執着しての、そういう限定付きでの、「天下無用」なのではなかろうか。何はともあれ、『人と文学 高浜虚子(中田雅敏著)』(勉誠社)のものを下記に掲げておきたい(これは、参考情報で、やや虚子サイト寄りの記述が多く見受けられるということを付記しておきたい)。

○日本の伝統的芸能や文芸の技の伝授や習得の方法としては、教授格の師匠、宗匠のもとで修業を積むという形で技術を模倣するか、または盗む、新たに開発するという手段が一般的であった。技術が師匠格の人に及ぶか、師匠が許した場合に独立するという徒弟制度、暖簾分け、という制度が永いこと継承されて来た。中でも秘技や秘術は門外不出とされ、子や孫により代々受け継がれる一子相伝という方法もあった。工芸、舞踊、意、剣道、茶道、和歌や俳諧などにおいても創作の道はそこを通過して行なわれてきた。こうした制度や師弟関係によって長いこと日本の伝統の技と芸とが継承されて来た。……   (全文を読む)


point(203) 真っ赤な嘘をつく 鷹羽狩行『俳句の秘法』 猫髭  閲覧人数: 441  (2017-01-09)
キーワード:鷹羽狩行; 猫髭; 週刊俳句;
鷹羽狩行の新著『俳句の秘法』は、昭和62年から平成21年までの二十年余にわたる講演のうち八篇の講演録を中心に寸言や添削をまとめた一書である。タイトルが蠱惑的で、わたくしのような下手の横好きでも、これを読めばたちどころに上達するような錯覚を起こさせるので、早速買って、ページをめくる手ももどかしく、いつ秘法が公開されるのか、次か次かと読んでいるうちに読み終わってしまった。

「あとがき」にはこうある。

タイトルの『俳句の秘法』の「秘法」は秘密の方法という意味である。だから講演だけにとどめておくべきものだが、あえて公開することにした。
「あえて公開することにした」という、門外不出、一子相伝のような「秘法」を読み落としたのかと、読み直したのが今回のブックレビューである。

わたくしが『俳句の秘法』に期待したのは故がないわけではない。鷹羽狩行には『俳句入学』(NHK出版)という俳句入門書があり、初学時代に学んで舌を巻いたからだ。殊に「俳句の背景」の章は、「数と俳句」「色と俳句」「地名と俳句」というように、「季語」という扇の要のような俳句の中心だけではなく、その背景になる数字や色や地名などを論じて、俳句の全体構造を説くという、実にシャープな切れ味の俳句入門書だった。

有季定型俳句は、普通「季語」を中心に詠む。しかし、ある程度五七五のリズムが指を折らなくても一塊の十七文字という形態として身に付けば、「季語」以外の「数」や「色」や「地名」や「五感」を心に置いて詠めば、自然以外の世界に対しても瞬発力と想像力を養い、素材のヴァラエティが広がるため、「写生」という単色のデッサンの、次のステップとして理に適った指導方法だった。

例えば「数と俳句」を例に取れば、鷹羽狩行は、「一」「二」「三」「四」「五」「七」「八」「八十」「百」「千」ひいては「おおよその数」といった、それぞれの数の持つイメージやニュアンスを説き起こして例句を並べるので、実に明解で、工夫を凝らすとはどういうことなのかがワイドショーのように楽しめる。わたくしが原石鼎という俳人に惹かれ、分厚い『原石鼎全句集』(沖積舎)を買ったのは、鷹羽狩行の緻密にして繊細な鑑賞を読んだためである。
「二」という数は、本来、同じだけの力・価値をもって対峙・対立しあう意味をもっています。この同じ対立の関係でも、そこから生じる内容によっては、不統一なものや調和のないものといった、いわゆる“違和感”や“不安定”な気分を表わす「二」もあります。たとえば、

  秋風や模様のちがふ皿二つ 原石鼎

夏が過ぎて秋風が立ち始める頃の、そぞろ慌ただしく落ち着かない季感が根本にある句です。風だけは秋なのに(外部の皮膚感覚)、なお夏が残っている初秋の違和感(内部の身体感覚)が、「模様のちがふ皿二つ」の「二つ」といえないでしょうか。
『俳句の秘法』を読み始めての違和感は、この緻密にして繊細な目が、別人28号かというほど大雑把になっていることで、例えば第一章は「俳句の素材と発想」「詩趣と品格」の二編からなるのだが、「俳句の素材と発想」では、まず、「山寺にはらはら降りし落葉かな」という「俳句のような格好をしているが、俳句とはいいがたい」、いわゆる月並句を挙げ、「降ったものが落葉」だから「木の葉かな」でなければならないとダメ出しをして(「降りし」と目睹回想の過去形だから既に落葉になっていると思うが)、山寺と落葉の取り合わせや「はらはら降」るというのが手垢のついた古臭くて使い古されたものだから、「俳句でもっとも大切な“感動”が感じられない」と切り捨てる。

いきなり「感動」を出されると困る。感動はひとそれぞれなので、万人が感動するものなどありえないし、ことに俳句は「感動=主観の最たるもの」なので、「感動」を省略するのが俳句の骨法だから、感動を押し出す論法は俳句からは最も遠い。

「感動(emotion)」というと、わたくしなどは映画『気狂いピエロ』の中でサミュエル・フラーがジャン・ポール・ベルモントに「映画とは何か」と聞かれて「映画は戦場のようなものだ。愛、憎しみ、アクション、暴力、死、つまり、ひとことで言えば感動だ」と応えるシーンを思い出すが、映画のような暗室に詰め込まれて、映像、音響、音楽などがでかい銀幕から体ごと鷲掴みにするように降りそそぐ装置であればまだしも、俳句はぴらぴらの短冊一枚で納まる仕掛けだから、「俳句は戦場のようなものだ」とは言い切れない。感動の仕掛けが恐ろしく低いので、蚯蚓が鳴いたり亀が鳴いたりする幻の声に耳を傾けないと聴こえないほど、俳句の声はか細い。

現に、「落葉」という古い素材でも新鮮な感動に満ちている句として挙げている、

  啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 水原秋桜子

の有名句にしても、綺麗な句だとは思うし、うまいとは思うが、感動するかというと、少し違うという気がする。

わたくしのバッテリーの感度が悪いといわれればそれまでだが、この秋桜子の句もそうだが、この後に「古い素材を新しくよみがえらせる」例として、

  滝の上に水現れて落ちにけり 後藤夜半

  をりとりてはらりとおもきすゝきかな 飯田蛇笏……   (全文を読む)


point(202)余白への旅ー平田栄一求道俳句概論 島 一木  閲覧人数: 425  (2017-01-01)
キーワード:平田栄一;求道俳句概論;島 一木;層雲;自由律;青年句会;
一、その出発
平田栄一は、二十六歳のとき(一九八一年八月)にキリスト教カトリックの洗礼を受けている。彼に洗礼を授けたのは、小説家の遠藤周作との交友でも有名な井上洋治神父である。俳句を始めたのは、それから五年後のことであるから、平田栄一俳句は出発時から信仰者の俳句ということになる。
信仰などいらぬという涼しい目をしている
一九八六・〇八
神を呼び神を疎ましく生きている
〃   
 「私の句作動機は、当初から求道的なものであった。洗礼を受けたものの、今一つ救いの実感が持てない心許なさに悩んでいた(中略)。何か具体的に形になる求道手段が欲しい、そう思いながら悶々としていた」(「青年句会報」第69号)。彼は、書店で荻原井泉水の著書『新俳句入門』に出会い、「層雲」自由律の門を叩く。

二、その活動
「層雲」に入会してからの活動には目覚ましいものがある。四年目で新人賞を受賞。そして、一九九〇年二月には、「層雲」の若手作家を中心とする「青年句会」を立ち上げる。「氏には青年句会発足当初からお世話になりっぱなし、主催もずっと自分でなされ、キャシャなあの細身の身体でよくもまあ続けてこられたと感心するばかりである。句会では驚くまでに正確無比鋭い句評が歯に衣を着せぬまでにポンポンとびだし、酔ってはまるで酔虎のように俳界の過去現在未来を吠えまくしたてる」(比田井白雲子「言葉の伝導者」)。青年句会メンバーの述懐だが、当時の情況が生き生きと伝わってくるようだ。
手相見にもう客がいて浅草仲見世師走の朝
一九九〇・〇三
不発弾眠る杜の蝉しぐれ
一九九〇・一〇
散文的朝、韻文的夜
一九九二・一〇
一方で、「鳩よ!」「月刊宝石」に創句──永六輔氏による造語で「自由律より自由に」「俳句のような短文ならなんでもどうぞ」という趣旨のもの──を投稿して最多入選を果たす。「俳句空間」へ作品を投稿し始めるのも、この頃からである。
  失業中きのうと同じカーテンの位置
一九九一・〇二
月夜の海体内時計遅れがち
一九九一・一〇
蝶ひとひら 改札で呑む強心剤
一九九三・〇三
産声以前 たしかに溜息
一九九三・〇六
晩鐘のように母の小言を聞く
一九九七・〇七
 年月順位に記録された全発表作品の資料を眺めると、現代俳句協会や俳句総合誌へと活動の場を広げていく様子がよくわかる。才能ある俳句作家の順調な滑り出しと言うべきだろう。「層雲自由律」(「層雲」は「層雲社通信」「層雲自由律」と誌名を変えていく)を活動の中心としながらも、「俳句ポエム」や詩誌「泥水」等へも投稿している。成星出版刊の『現代歳時記』にも作品が掲載された。「豈」に参加するのは30号(一九九八年七月)からである。しかし、二〇〇一年七月には「層雲自由律」を退会。同九月に、主宰する「青年句会」を「余白の風」と改称して広く詩と信仰の場とするなど、求道中心の方向へと急展開し始める。このことについては後に改めて述べる。所属誌も、二〇〇二年一月「海程」、同十一月「紫」と目まぐるしく変転して現在に到る。
雲を喰い尽くした植木屋の消息
一九九五・〇五
雷鳴七つ のちの虹 のち広場
一九九五・一一
離人症の足裏疼く夏木立
一九九八・〇七
祈りを忘れていた虚無が手のひらにある
二〇〇一・〇一
多発テロ葡萄の重さ手に余る
二〇〇二・一〇
 彼の旺盛な活動は俳句だけに止まらない。『今を生きることば』(女子パウロ会・一九九四年)、『やわらかな生き方』(サンパウロ・一九九六年)、『人の思いをこえて』(ヨルダン社・一九九九年)、『雨音のなかに』(ヨルダン社・二〇〇〇年)など求道的エッセイ詩集を多数出版していることからも、その情熱のほどは知れよう。ホームページ「今を生きることば」は、全国のキリスト者や求道者の活発な交流の場となっている。

三、その作品展開
 最初に述べたように、平田栄一の俳句とキリスト教は切り離せない。「神の問題がなければ、おそらく私が俳句にかかわることはなかったであろう。私にとって求道と句作は同時展開し、切り離して考えることはできないものであった」(「神を詠む──現代俳句協会青年部勉強会寸感」)と書くほどだから、いかにクリスチャンらしく敬虔な作品ばかりかと思いきや、実際には、次のようなおよそクリスチャンらしからぬ作品が目白押しである。
妻に憎しみ持つ夜の冷たい足
一九八九・〇七
来ない女を待つブラック一杯分の夕陽
一九九〇・〇八
美少年Aいつから鍵穴を覗く癖
一九九三・一二
死出の旅たとえば豆腐の上を往くような
一九九五・〇六
酔いどれ黄金虫 起きよ 手をのばせ
一九九七・〇一
 本稿では作品をほんの一部しか紹介できないが、資料にはもっと生々しい、普通の生活者と変わらない、いやそれ以上に振幅が激しいのではないかとさえ思われる感情生活の記録が並ぶ。これは一体どういうことなのだろうか。信仰を持ってもなかなか現実とは相容れない実生活上の葛藤の表出と受けとるべきだろうか。ある程度はそうかもしれない。だが、事はそれほど単純ではない。そもそも洗礼を受けたときの心境を、「越えがたいと思っていたキリスト教の敷居、実はそんなものは最初からなかったのだ、今あるがままの自分でよいのだ、ということに私は師(井上洋治神父・筆者注)によって徐々に気づかされていった」(『わが心の春夏秋冬 第二集』潮文社)と述べる彼にとって、信仰を持たない者には一見とりすましたように見えるクリスチャンらしさなどとは、初めから無縁であった。
  不治の病人ひと見舞った日の妻強く抱く
一九八八・〇〇
  捨て置け 神が拾う
一九九〇・一〇
利き耳立ててる街路樹 人間不信
一九九二・〇八
花絶えし花壇 忘却は罪ですか
一九九五・一〇
弱さも神の豊かさカルピスすする
一九九七・〇九
 彼にとっての問題は別のところにあった。「有季定型という枷のない自由律俳句は、思想・宗教的傾向の強い自分の心情を読み込む器として、大変魅力的に思えた。(中略)だが実作に熱心に取り組むにつれて、自由律がそう生易しいものではないということが徐々にわかってきた。文学的によい作品を産もうとすることと、宗教的心情を表現することとの乖離──『宗教と文学』あるいは『詩と信仰』という古くて新しい問題に突き当たったのである」(「青年句会報」第69号)。つまり、「神を呼ぶ」キリスト教的心情と、いわば「神を疎ましく」思う文学的リアリズムとの葛藤の問題(同前掲文)に悩み続けたのである。
 文学的によい作品を産もうとする作家として当然の衝動は、「句体が一様でなく多種多様、全くバラエティに富んでいる」(比田井白雲子「言葉の伝導者」)と評されるように、言葉の実験者とも呼べる多彩な作品を産み出した。俳句という短い詩形で言葉を自由自在に操れるようになるためには、作家人生において早い遅いの違いはあっても、十年位は思いっきり色々な試みを実験的に敢行する時期を避けて通れないと私は考えている。彼の場合は、その試行錯誤の時期が一番最初に来たと思われる。幸いにと言うべきか、有季定型よりも試行幅の大きい自由律で、しかも青春から中年に差し掛かる不安定な感情生活と相俟って、思う存分に言語実験は敢行されたとみるべきだろう。俳句作品における<私性>の問題について、「作品中心主義であるべきところが、作者中心主義に陥り、いつのまにか作品の主人公=作者自身と無意識に思い込んでしまう過ち」(「青年句会報」第61号)と述べる作者の作品を、そのまま実生活と直結させて論じることはできない。
  荒れ野にて母と女が交錯す
一九九二・〇四
  始祖鳥飛ぶ交差点イエス振り向く
一九九二・〇九
アースに触れた夕日 もう泣かない
一九九三・〇三
椅子 百年の倦怠を運ぶ
一九九四・一一
入日ドラゴンの舌に帆を立て
一九九七・〇二
 これだけ意欲的に言語実験を敢行した作家が、自由律から有季定型や前衛俳句などの他のスタイルへと興味の矛先を移してゆくのは時間の問題であり、当然のことだったと私は思う。「その後『豈』へ入会したのも、自由律・定型・有季・無季にかかわりなく、現代俳句を模索してみたいと思ったからです」(同前掲文)。残念ながらこういう姿勢は、狭量なセクト主義が定着している現今の俳句界では、なかなか受け入れられない。前に記したように所属誌を変えていったのも、新しい探求の場を求める実験者としての姿勢からみれば必然的なことだったかもしれない。……   (全文を読む)


point(201)「未来へ」ー 坊城俊樹の 空飛ぶ俳句教室俳句教室 坊城俊樹  閲覧人数: 486  (2017-01-01)
キーワード:坊城俊樹;「未来へ」;空飛ぶ俳句教室俳句教室;虚子;俳句;近代俳句概論;
いよいよ最後のクライマックスです。

 俳句というものを、今まで近代の歴史をふまえてその発展の様子をかいま見てきました。
 特に明治以降の俳句という名称になった時点からの発句は、百花繚乱の様相を呈してきたといえます。
 しかし、現代においては、その普及・流行のわりには作品として歴史に残るであろうものは少なく小粒になってきたといえるでしょう。
 その一つの要因は俳句の流派のせめぎあいによる対立、あるいは流派の中の派閥による対立です。それによって、俳句をとても狭い範囲でしか認知しないようになってきたのです。
 吾が伝統派もその例に漏れず、とくに師の教えをいかに忠実に守るかという観点で俳句を発展させてきました。
 むしろ虚子の教えから出発するのではなく、その後の先生からの出発、あるいは地域ごとの先生からの出発によって作品傾向が限定されたといえるでしょう。

 では、私たちはこれから俳句をどうしたらよいのでしょうか。
 
 ここに組織論はあまり持ってきたくはありませんが、重要なのは俳句は一人で作るということです。幾人かのグループで俳句会のようなものをやるとしても、所詮俳句は一人だけのものだと。
 流派や派閥の興亡に一喜一憂するほどくだらないことはないのです。結社や団体などは一種の必要悪くらいの気持ちでいるべきです。
 俳句を作る俳人は孤独であるべきです。俳人同士で群れることもよくない。正直なところこの群れることは、もともとプロフェッショナリズムに欠ける俳句作家たちの才能をよけいに曖昧模糊としてしまいます。
 俳句で専門作家になるということでなく、俳句という遊戯を中途半端なものにしないためにも、孤独と向き合い、五七五と向き合い、人や自然と向き合うべきです。

 それから、俳句をするには、もっと日本のことを考えるべきでしょう。今日は先生に入選するかを心配するのも結構ですが、もっと日本の真実の美を考えるべきです。
 ともすると俳句の運動の中で環境問題や政治問題、社会問題を織り込むようになりますが、そういう意味の日本への憂慮ではない。
 特に環境問題を俳句や俳人が解決するなんてことは考えないほうがいいと思います。それは個々人や所属する組織のこと、俳句という文芸には何の力も無いのです。
 そこを肥大してゆくと、21世紀22世紀のもっとも月並で陳腐な文芸になることでしょう。
 そう、俳句が一番腐敗する原因となるのは、その偽善性であります。俳句にもっとも必要なのは、日本的な純粋性であります。

 俳句が日本を救うなどはよもや考えないほうがいい。地球規模の環境クライシスを俳句が変えられるわけがない。それを憂慮することは当然ですが、俳句はひたすらに日本と日本人がまだ美しくいられるかを五七五の中だけで考えればよろしいのです。
 
 もう一つ、やはり俳句を老人たちの趣味から、若者へ取り返さなくてはなりません。しかし、誤解の無いように申しますが、これは肉体年齢のことをいっているのではありません。その精神の中に滾つ燃えるものがあってほしいということ。燃えるでも萌えるでも結構ですから、老いさらばえてゆく精神を今一度取り戻すための俳句であってほしい。
 仮に、老境の止水明鏡の境地であっても、その余韻としての裏側にある明治の残滓のようなものが欲しいのです。
 ただ、余生のための俳句ではなくて、どうせ死ぬ運命ならば冥土の土産、ひいては輪廻転生の次回のための準備であってほしいのです。
 三島由紀夫の作品でいえば、俳句こそ、その集大成で輪廻転生の極美を語る、日本美意識の結晶である『豊穣の海』の全巻、それこそが自身の俳句の一作品であるくらいの気概が欲しいのです。
 
 しかし、俳句とは単なる遊びです。

 学問でもキャリアでもありません。そういいますと、今まで言ってきたことと矛盾するようですがそうではありません。
 遊びであるからこそ、厳しく流行を越えていただきたい。だからこそ楽しいのです。そこにある能動的な楽しさを追求すべきです。
 楽しくなければ俳句じゃありません。先生に萎縮していたらお辞めなさい。俳句の友達がいやなら別のところに行きなさい。そして、孤独でひとり悩みなさい。そして、良い作品に出会えたら快感に打ち震えなさい。
 
 俳句は日本が世界に誇るもっとも単純かつ深遠なお遊びなのです。
 五歳の幼児から九十五歳の長老まで、なんの差別もありません。学歴や経歴などない方がよいくらいです。ガッテンの人にはガッテンの、病気がちな人には病気がちの、チンピラにはチンピラの俳句があります。
 
 先日、俳優が覚醒剤と麻薬の所持によって逮捕されました。本人の俳優としての才能、意志の弱さと、社会性の甘さが如実に出た事件でした。
 また、その後には女優が自殺しました。インターネットへの中傷と、自身の仕事への不満、将来への不安などが原因でした。
 作家も詩人も漫画家も自殺しました。サラリーマンや警察官や自衛官、政治家やスポーツ選手までも自殺しています。子供や学生すらも・・・・
 それらの出来事が社会的にすべて赦され、あるいは同情され理解されるものではありません。まして、そのような不幸を賞賛するものでもありません。

 しかし、現今の俳人はめったに自殺したり、薬物中毒になったりはしません。暴力や異性がらみの醜聞すら皆無です。
 人生の余録ていどの悩みと快楽とを俳句と共有しているからです。
 それだけ、分身であるはずの俳句作品に遊び、悩み、のめりこんでいないのです。それが引き金で人生を台無しにするほどのこともない。
 昨今の俳人とはそういう人種です。無論、なにも犯罪を犯せ、自殺せよといっているのではありません。人生を台無しにしろともいっていない。
 そのくらいの不幸な快楽を、いや激烈なのめり込み方を俳句の人生で選択した人が皆無に近いという現実です。

 俳句は単なる遊びです。単なる趣味です。ちゃらけた知的ゲームでもあります。有閑マダムの時間つぶしでしょう。あの世までの慰撫かもしれません。……   (全文を読む)


point(200) 俳諧大要 正岡子規  閲覧人数: 800  (2017-01-01)
キーワード:正岡子規; 俳諧大要; 俳句;
+目次

ここに花山かざんといへる盲目の俳士あり。望一もういちの流れを汲くむとにはあらでただ発句ほくをなん詠よみ出いでける。やうやうにこのわざを試みてより半年に足らぬほどに、その声鏗鏘こうそうとして聞く者耳を欹そばだつ。一夜我が仮住居かりずまいをおとづれて共に虫の音ねを愛めづるついでに、我も発句といふものを詠まんとはすれどたよるべきすぢもなし、君きみわがために心得となるべきくだりくだりを書きてんやとせつに請こふ。答へて、君が言げん好よし、昔は目なしどち目なしどち後について来ませとか聞きぬ、われさるひじりを学ぶとはなけれど覚えたる限りはひが言ごとまじりに伝へん、なかなかに耳にもつぱらなるこそ正覚しょうがくのたよりなるべけれ、いざいざと筆をはしらし僅わずかにその綱目ばかりを挙あげてこれを松風会諸子しょうふうかいしょしにいたす。諸子幸ひにこれを花山子に伝へてよ。

第一 俳句の標準

一、俳句は文学の一部なり。文学は美術の一部なり。故に美の標準は文学の標準なり。文学の標準は俳句の標準なり。即すなわち絵画も彫刻も音楽も演劇も詩歌小説も皆同一の標準を以もって論評し得べし。
一、美は比較的なり、絶対的に非あらず。故ゆえに一首の詩、一幅いっぷくの画を取とって美不美を言ふべからず。もしこれを言ふ時は胸裡きょうりに記憶したる幾多の詩画を取て暗々あんあんに比較して言ふのみ。
一、美の標準は各個の感情に存す。各個の感情は各個別なり。故に美の標準もまた各個別なり。また同一の人にして時に従つて感情相異あいことなるあり。故に同一の人また時に従つて美の標準を異にす。
一、美の標準を以て各個の感情に存すとせば、先天的に存在する美の標準なるものあるなし。もし先天的に存在する美の標準(あるいは正鵠せいこくを得たる美の標準)ありとするも、その標準の如何いかんは知るべからず。従つて各個の標準と如何の同異あるか知るべからず。即ち先天的標準なるものは吾人ごじんの美術と何らの関係を有せざるなり。
一、各個の美の標準を比較すれば大同の中に小異なるあり、大異の中に小同なるありといへども、種々の事実より帰納すれば全体の上において永久の上においてほぼ同一方向に進むを見る。譬たとへば船舶の南半球より北半球に向ふ者、一は北東に向ひ一は北西に向ひ、時ありて正東正西に向ひ時ありて南に向ふもあれど、その結果を概括して見れば皆南より北に向ふが如ごとし。この方向を指して先天的美の標準と名づけ得うべくば則すなわち名づくべし。今仮かりに概括的美の標準と名づく。
一、同一の人にして時に従ひ美の標準を異にすれば、一般に後時の標準は概括的標準に近似する者なり。同時代の人にして各個美の標準を異にすれば、一般に学問知識ある者の標準は概括的標準に近似する者なり。但ただし特別の場合には必ずしも此かくの如くならず。

第二 俳句と他の文学

一、俳句と他の文学との区別はその音調の異なる処にあり。他の文学には一定せる音調あるもあり、なきもあり。しかして俳句には一定せる音調あり。その音調は普通に五音七音五音の三句を以て一首と為なすといへども、あるいは六音七音五音なるあり、あるいは五音八音五音なるあり、あるいは六音八音五音なるあり、その他無数の小異あり。故に俳句と他の文学とは厳密に区別すべからず。
一、俳句と他の文学との音調を比較して優劣あるなし。ただ風詠する事物に因よりて音調の適否あるのみ。例へば複雑せる事物は小説または長篇の韻文に適し、単純なる事物は俳句和歌または短篇の韻文に適す。簡樸かんぼくなるは漢土の詩の長所なり、精緻せいちなるは欧米の詩の長所なり、優柔なるは和歌の長所なり、軽妙なるは俳句の長所なり。しかれども俳句全く簡樸、精緻、優柔を欠くに非ず、他の文学また然しかり。
一、美の標準は美の感情にあり。故に美の感情以外の事物は美の標準に影響せず。多数の人が賞美する者必ずしも美ならず、上等社会に行はるる者必ずしも美ならず、上世じょうせいに作為せし者必ずしも美ならず。故に俳句は一般に弄もてあそばるるが故に美ならず、下等社会に行はるるが故に不美ならず。自己の作なるが故に美ならず、今人こんじんの作が故に不美ならず。
一、一般に俳句と他の文学とを比して優劣あるなし。漢詩を作る者は漢詩を以て最上の文学と為し、和歌を作る者は和歌を以て最上の文学と為し、戯曲小説を好む者は戯曲小説を以て最上の文学と為す。しかれどもこれ一家言いっかげんのみ。俳句を以て最上の文学と為す者は同じく一家言なりといへども、俳句もまた文学の一部を占めて敢あえて他の文学に劣るなし。これ概括的標準に照てらして自おのずから然るを覚ゆ。

第三 俳句の種類

一、俳句の種類は文学の種類とほぼ相同じ。
一、俳句の種類は種々なる点より類別し得べし。
一、俳句を分ちて意匠及び言語(古人のいはゆる心及び姿)とす。意匠いしょうに巧拙あり、言語に巧拙あり。一に巧にして他に拙なる者あり、両者共に巧なる者あり、両者共に拙なる者あり。
一、意匠と言語とを比較して優劣先後あるなし。ただ意匠の美を以て勝まさる者あり、言語の美を以て勝る者あり。
一、意匠に勁健けいけんなるあり、優柔なるあり、壮大なるあり、細繊さいせんなるあり、雅樸がぼくなるあり、婉麗えんれいなるあり、幽遠ゆうえんなるあり、平易なるあり、荘重そうちょうなるあり、軽快なるあり、奇警きけいなるあり、淡泊たんぱくなるあり、複雑なるあり、単純なるあり、真面目まじめなるあり、滑稽突梯こっけいとっていなるあり、その他区別し来きたれば千種万様ばんようあるべし。
一、言語に区別あるは意匠に区別あるが如し。勁健なる意匠には勁健なる言語を用ゐざるべからず。優柔なる意匠には優柔なる言語を用ゐざるべからず。雅樸なる言語は雅樸なる意匠に適し、平易なる言語は平易なる意匠に適す。その他皆然り。
一、意匠に主観的なるあり、客観的なるあり。主観的とは心中の状況を詠じ、客観的とは心象に写うつり来りし客観的の事物をそのままに詠ずるなり。
一、意匠に天然的なるあり、人事的なるあり。人事的とは人間万般の事物を詠じ、天然的とは天文、地理、生物、礦物等、総すべて人事以外の事物を詠ずるなり。
一、以上各種の区別皆優劣あるなし。
一、以上各種の区別皆比較的の区別のみ。故に厳密にその区域を限るべからず。
一、一人にして各種の変化を為す者あり、一人にして一種に長ずる者あり。

第四 俳句と四季

一、俳句には多く四季の題目を詠ず。四季の題目なきものを雑ぞうと言ふ。
一、俳句における四季の題目は和歌より出でて更さらにその区域を広くしたり。和歌にありては題目の数僅々きんきん一百に上のぼらず。俳句にありては数百の多きに及べり。
一、俳句における四季の題目は和歌より出でて更にその意味を深くしたり。例へば「涼し」と言へる語は和歌には夏にも用ゐまた秋涼しゅうりょうにも多く用ゐたるを、俳句には全く夏に限りたる語とし、秋涼の意には初涼、新涼等の語を用ゐしが、今は漸ようやくにその語も廃すたれ涼の字はただ夏季専用の者と為れり。即ち一題の区域は縮小したると共にその意味は深長と為りたるなり。
一、単に月と称すれば和歌にては雑となるべし。俳句にては秋季となるなり。時雨しぐれは和歌にては晩秋初冬共にこれを用う。殊ことに時雨を以て木葉このはを染そむるの意に用う。俳句にては時雨は初冬に限れり。従ひて木葉を染むるの意に用うる者殆ほとんどこれなし。霜しもは和歌にては晩秋よりこれを用ゐ、また紅葉こうようを促すの一原因とす。俳句にては霜は三冬に通じて用うれど晩秋にはこれを用ゐず。従ひて紅葉を促すの一原因となさず。俳句季寄きよせの書には秋霜しゅうそうの題を設くといへども、その作例は殆んど見るなし。
一、梧桐ごどう一葉いちよう落おつの意を詠じなば和歌にても秋季と為るべし。俳句にては桐一葉きりひとはを秋季に用うるのみならず、ただ桐と言ふ一語にて秋季に用うる事あり。鷹狩たかがりは和歌にても冬季なり。俳句にては鷹狩を冬季に用うるのみならず、ただ鷹と言ふ一語も冬季に用うるなり。
一、四季の題目にて花木かぼく、花草かそう、木実このみ、草実くさのみ等はその花実かじつの最もっとも多き時をもつて季と為すべし。藤花、牡丹ぼたんは春晩夏初を以て開く故に春晩夏初を以て季と為すべし。必ずしも藤を春とし牡丹を夏とするの要なし。梨なし、西瓜すいか等また必ずしも秋季に属せずして可かなり。
一、古来季寄になき者もほぼ季候きこうの一定せる者は季に用ゐ得べし。例へば紀元節、神武天皇祭じんむてんのうさい等時日一定せる者は論を俟またず、氷店こおりみせを夏とし焼芋を冬とするも可なり。また虹にじの如き雷の如き定めて夏季と為す、あるいは可ならんか。
一、四季の題目中虚きょ(抽象的)なる者は人為的にその区域を制限するを要す。これを大にしては四季の区別の如きこれなり。春は立春立夏の間を限り、夏は立夏立秋の間を限り、秋は立秋立冬の間を限り、冬は立冬立春の間を限る。即ち立冬一日後敢あえて秋風と詠ずべからず、立夏一日後敢て春月と詠ずべからず。.....   (全文を読む)


point(199) 俳句入門書100冊を読んで ひらのこぼ  閲覧人数: 428  (2016-12-16)
キーワード:俳句入門書; ひらのこぼ;

三十代の頃、仕事で参考にしようと年間100冊と目標を決めてマーケティングや広告関係、経営書などを乱読していた時期があります。せっかくだからと「これは覚えておいて役に立つ」という箇所を選んでダイジェストにしていました。

その歩留まりはせいぜい二~三パーセント。多くても五~六パーセントでした。ポイントのところだけを切り抜いてA4の用紙に貼ってダイジェストを作ると三百頁くらいの本が概ね十頁程度に収まりました。

仕事での経験やこれまでの読書などで知識やノウハウは日々蓄積されていきます。「あぁ、これはもう分かっている」「これは必要なときにそのデータを見れば済むな」といった内容が多くなるのは当然です。

その分野に習熟すればするほど関連書籍の歩留まりは悪くなっていきます(しかし一冊三千円の書籍だとしても、ダイジェスト十枚として、一枚当り珈琲一杯分。それで新しいノウハウや貴重な知識が身につくのなら、それはそれで安い買物だといえます)。

■俳句入門書の歩留まりは?

さて俳句関連ではどうでしょうか。入門書や俳書は明治以来驚くほどの数の書物が出版されています。「俳句を作り始めて数年経た人が、こうした入門書や評論などからどの程度の歩留まりで実践的なノウハウを得ることができるだろうか。もう少し歩留まりの高い、実践知識ダイジェストのようなものが作れないだろうか」。そんなことから発想して今回上梓したのが『俳句開眼 100の名言』(草思社)です。

「なんだ、宣伝か」とおっしゃらずにしばらくお付き合いください。読者を俳句づくり数年といった設定で俳書をあれこれみていくと、実作のノウハウに限って言えば歩留まりはかなり低い。とくに入門書となると季語や切れなどの基礎知識が主体となりますからもっと低くなります。中級者向けの入門書でも、それぞれの著者の俳句に対する考え方とか立場に差がありますから「ちょっと違うかな」と感じるところが出てきます。

しかし俳人一人一冊から一テーマと決めていますから、なんとかなるだろうと、入門書や俳書から百冊選び、それぞれの書の中から中級者向けの実践的なノウハウを抜き出していくことにしました。

とりあえず俳句入門書や俳句評論などをアマゾンや図書館のデータベースで検索したり、著名俳人の著書や全集を調べました。その数、ざっと三百冊余り。しかし基礎知識や名句鑑賞、自句自解といったものからはなかなか具体的な「作り方の極意」といったものを掬い出すのは厄介です。内容も心構えや芸談、人生論といった趣のものがかなりの割合で見られます。

波郷の「俳句は私小説だ」などは、波郷の「俳句とはなにか」に対する答えではあっても具体的なハウツーではありません。兜太では「俳句造型論」が知られています。自句の「銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく」が生れた背景を紹介しながら解説されていますが「さあ、自分で作ってみろ」と言われたら途方に暮れます。

万太郎や草城になにかいい箴言はないかと全集とかでも探しましたが、どちらにも実作の手引きといったものが見当たりません(あるのかも知れません)。

■俳句の再入門書はこれがおすすめ!

一方収穫もずいぶんありました。あれこれ読んでみて「これはいいな」と思った入門書を少しあげてみます。

「もう一度俳句について基本を学んでおこう」という場合には「俳句入門三十三講」(飯田龍太著)や「俳句入門」(秋元不死男著)などがおすすめ。「実作の基礎体力をつけよう」ということなら、俳句のトレーニングブック「20週俳句入門」(藤田湘子著)があります。

「ともかく実作のためのヒントが欲しい」という方に実践的な俳書を三冊選ぶとすると、まずは例句が豊富で作句のヒント満載の「秀句誕生の鍵」(磯貝碧蹄館著)でしょうか。

次に茶道誌に連載されたものが一冊になった「俳諧無辺 俳句のこころを読み解く36章」(小島厚生著)。これは「俳句で楽しく、でも真面目に遊びたい」という向きに格好のノウハウ書だと思いました。

最後が「槐庵俳語集―俳句真髄」(岡井省二著)。同人誌「晨」での選評を集成したものです。含蓄に溢れた語録、しかも実践的なノウハウにもなっています。

■実践的知識としての例句選び

名言(極意)選びは、あれこれ寄り道もあって思いのほか時間がかかりました。いざ選んでみると重複するものも結構あります。何度か選びなおして、なんとかほぼ百冊の俳書と百の極意(名言)を決めました。これで目処はついたはずです。ほっとしたような気分になります。それが今年の初めでした。

でも本当に大変なのはここからでした。それぞれのテーマに即した例句選び。これに手こずりました。まず自分が気に入った句、いいと思った句をかなりの数、新たにストックしていかないといけません。そしてそのなかからテーマに即した句を選びます。

「これなら自分も作れそうだ」と思えるような実践的な例句を選びたい。そして同じテーマの中でも方向性の違うものを紹介したい。これまでの自著で紹介した句はできるだけ外したい。でも見当たらない。また新しく探す。そんな繰り返しでした。

ということで、これまでで一番俳句漬けとなった一年でした。何冊かでも埋もれていた、いい俳書が掘り起こせていればいいのですが、どうでしょうか。そして読者の方にとっての今回の弊著の歩留まりはいかがなものなのかと気がかりな年の瀬です。
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point(198) 台湾の俳句史(補遺) 呉昭新;オーボー真悟  閲覧人数: 260  (2016-10-26)
キーワード:呉昭新;オーボー真悟;黄霊芝;俳句史;台北俳句会;
台湾の俳句史(補遺)

黄霊芝主宰の俳句観

先日暫く無沙汰していた月例会の句会に顔を出した。毎月出句はしているが選句はしていない(通信選句)、アマノジャック年寄りである。と言うのは主宰の黄氏が体調を崩してもう四年ばかり休んでいらっしゃり、句会は互選で高点句を競っているだけで他には何も得るところがない。高得点は何を意味するのか?同じレベルの方が多い、よく言うて同じ感覚趣味を持った方が多いという事だけだ。だがいくら私が歳をとっていると言っても、より年長の方方が10人以上もいらっしゃり、そのうえ皆俳歴50年以上の方ばかり、小生のようなひよっこでは息をすることさえ控えなければならない場である。まさしく典型的な所謂の伝統俳句の句会の一景である。そこでは字余り、字足らず、破調、季語が動く、つきすぎ、離れすぎ、説明文、それがどうした…などなどの言葉が飛び交う。
  だが、若い人の台北俳句会に関する研究論文を読んで見るとその昔黄氏が元気でいらっしゃった時はそうでなかったらしい。私の入門がおそすぎたのだろう、惜しむらくは黄先生の素晴らしい主宰の場には浴する事ができなかった事だ。。

  でも、今回の句会に出たのは幸運だった。というのは下岡友加氏編著2015年8月出版の<黄霊芝小説選2>を頂いたからだ。2012年発行の第一集では黄氏の日本語小説10編と評論1編が収められていた、そして今回の第二集では小説7編、童話4編と黄氏最新の書き下ろし原稿1篇である。小説はすでに読了済みだので、特別に注意はひかなかったが、問題は書き下ろし原稿である。

タイトルは<俳句自選百句>、編著者下岡氏は<黄の文芸活動の一つの締めくくりと位置づけられる。決して読みやすい句ばかりとは言えないが、句の前に置かれた「はじめに」では六十年に及ぶ句作のなかではぐくまれた、黄の俳句観が平明に説かれており、必読の文であろう。>と評釈している。そしてもっと私を驚かせたのは、「はじめに」の冒頭にある<これらの作からもわかるように私は必ずしも五七五の定型に臣服していませんし、季語の虜になってもおりません。>と言う黄氏の書き出しである。つづいて俳句の定義は最短の詩であるとし、またその短いというのは言葉数が少ないのと内容もまた少ないと言っている。また黄氏の従前の<俳句相撲説>を強調するとともに中国の甲骨文にある夥しい数の卜辞の一片<九日甲寅 不酒 雨>を例に俳句の理念は三千数百年前の中国殷代にすでに存在していたとしている。そして俳句で提起される<詩、写生、リズム、季語>について遠くは須佐之男命、そして近代以後は子規、尾崎放哉、中村草田男等の句を例に説明を加え、中国の毛詩、漢詩にまで言及している。

 そして最後に<もう一言加えたい。五七五は定義ではない。そして同じ文芸界に属する小説の世界では定型に縛られることなく、むしろ一作一作風をこそ手柄とするのではあるまいか。>と締めくくっている。

 まさしく青天霹靂、私は今の今まで黄氏を百分の百の伝統俳句の擁護者であり主宰と信じていた。いや僕だけではない句会のほとんどの方がそう信じてきたのだ、正直のところ会員のなかには俳句とは所謂の伝統俳句でそれ以外の俳句があるということさえ知らない方もいらっしゃる。6年ぐらい前か?私が伝統俳句は俳句全体の一部分と言っただけで小生を罵倒した日本人の方がいた、当然私は彼に悪意がないのは知っていたが、所謂の伝統俳句がいかに日本国内で影響力が在るかを伺い知らされた、そして今日の毎日新聞で<日本人は伝統に弱い>と言う一文を見た。

今私は胸を撫で下ろした、台湾唯一の日本語俳句会の主宰で私が尊敬する師匠があの狭い一個人の主張の伝統俳句でなく、もっと広い意味での俳句の真髄を追及していることを知り、世界で流行っている俳句も決して全部が全部真実の俳句ではない、黄氏のいうまた<漢俳>…も俳句ではない、日本の方々をも含めて世界の方々が真実の俳句、そして俳句の真髄を求めており、そして世界が持ち上げてくれている日本発想の<俳句>を日本人は大切にすべきであると言うことを心の底から感じたからだ。

虚子は虚子なりに俳句を一般大衆に広めた功労を認めるべきである、だからと言ってそれが全部ではない。もし時間がおありでしたら、子規の<歌詠みに与ふるの書>及び<俳人蕪村>と虚子の<俳句の作りよう>、<俳句とはどんなものか>と<俳句読本>をじっくり繰り返してお読みください、さすれば別に感ずることもまたあらん、また今泉惇之介の<子規は何を葬ったのかー空白の俳句史百年>(新潮選書―2011)にも目を通してください。俳句評論家の外山一機氏は今泉が子規自身の標準で選び漏れた一茶以後の俳句のなかから少なからずの秀句を見つけ出しその復権を実行したとこと、及び大衆文学的俳句と純文学的俳句にも言及している。思うに子規をしてさえしくじりや見逃しはあるのだ、いわんや一般の人においておやだ。若し子規をしてもう少し長生きであったらば現今の俳句界は変わっていたであろうと思う。そして一方<HAIKU>をももっとよく読んで俳句の真髄に悖るものは俳句から削除するように努力してもらいたものである。

瞬間的感動を最短の内容と長さで詠むのが俳句である。そしてこの日本に源を発する俳句を日本語及び世界のすべての言葉で詠むのだ。日本人はそれを誇りとするとともに大事にすべきである。写生、季語及び五七五にだけ拘っているべきではない。
(2016-01-27脱稿)

下に黄氏の全文を付記する:
http://oobooshingo.blogspot.tw/2016/01/009.html
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point(197)黄霊芝師逝く 呉昭新  閲覧人数: 271  (2016-10-24)
キーワード:黄霊芝;台湾俳句会;呉昭新;逝去;俳句の真髄;
戦後台湾唯一の日本語俳句会の主宰である黄霊芝先生が3月12日急逝なされました。その弟子たる私も一言述べなくてはなりません。
私が弟子であった期間はほかの大部分の方に比べればあまりにも短すぎました。79歳で入会し2009年の末からのわずか;6年ばかりである、それも師が体調を崩してからのことであり、それゆえ師の教えに直々与かったのは初めの一年ばかりで指折り数えるほどしかありませんでした。弟子入りする前から師のご高名は窺い知っており、著作も読んでおりましたが、入会後特別に師より頂いた多くの師の傑作より師の小説、詩学、芸術の造詣をより深く窺い知ることができました。ただ日本語を少し話せるだけと言うことで誘われて入った句会でしたが、もともと何かやりだしたらのめり込む性質なのでネットの上で手に入る俳句の資料を片っ端から読み漁り、ベテラン会員の陳錫恭氏(大学の英語教授)ご自身が勉強なされた俳句の資料や新しい俳句の入門書などをわざわざ台中から送って頂き、そして自分でも日本の古本屋から必要な資料を郵便で購入し、日本の俳人で漢詩詩人でもある畏友石倉秀樹氏(漢詩を30000首以上詠んでいらっしゃる)とメールで何十回でのやり取りで俳句の本質についての議論を交わし、指導に与かり何とか俳句に関する知識の習得に励みました。俳句の天賦の才の無い私ゆえ俳句の作品には特に提起しうる作品はありませんが、俳句事情については日本及び世界中の状態を一般の方よりは一応納得しました。特に日本の国内での事情については日本の俳句を4、50年詠んでいる一般の方よりは詳しい事情を知り得た筈でした。日本で俳句を詠んでいる方は大まかに二つのタイプがあります、一つは俳句を詩として詠んでいらっしゃるプロの方ともう一つは趣味または芸事として俳句を詠んでいらっしゃる方(大衆化)に分けられます、で後者の方が大多数を占めています。それらの人たちは所謂の伝統俳句の決まりだけが頭にこびりついて、ことごとに季語、五七五、切字ばかりを気にしており、俳句の本質については考えが及ぶことは稀でした。小林一茶をはじめ、河東碧梧桐、荻原井泉水、種田山頭火、尾崎放哉、中塚一碧楼、石田波郷、吉岡禅寺洞、加藤楸邨、日野草城、嶋田青峰、東京三、山口誓子、鈴木六林男、金子兜太、芝不器男、高柳重信ら非伝統派の俳人は念頭になく俳人とは認められていないようです。ことさら人間探究派や難解俳句などの俳人は相手にされません。それゆえ俳句を詠みながら俳句の本質や真髄などに思いが及び寺田寅彦、折口信夫、正岡子規、高浜虚子、金子兜太、長谷川櫂、夏石番矢、今泉惇之介、彌栄浩樹らの詩論、俳論を何回か読み直し、又ネット上の俳句評論コラムの若い世代の方々の考えにも目を通しました、自然一般俳句会、結社の営為にも思慮が及びました。ある程度進みますと俳句とは瞬間の感動を一番短い言葉で韻文に詠むことであり詠む人と読む人により読み取り方が違うのに気づき、世界の各言葉(日本語も含めて)に詠まれるためには花鳥諷詠、客観写生だけに拘らずもっと広い思惟で詠むべきだとの結論に達しました。この考えをまとめて一文にして黄先生におおくりしました。その後先生の発言で会員の方には聴力が落ちている方もいらっしゃり意見の交流が難しいこともあると聞き及び、自分のことをおっしゃっているのだと感じましたが、先生も自分もお互いに体力がままならずなかなか直接に教えに与かる機会がありませんでしたが、今年の一月の句会で下岡友加氏編集の<黄霊芝小説選2>(2015年8月出版)を手にし、その中唯一の書き下ろし文章<俳句自選百句>の冒頭で黄霊芝先生が:
<これらの作からもわかるように私は必ずしも五七五の定型に臣服して
いませんし、季語の虜になってもおりません。>そして最後に<もう一言加えたい。五七五は定義ではない。そして同じ文芸界に属する小説の世界では定型に縛られることなく、むしろ一作一作風をこそ手柄とするのではあるまいか。>
と締めくくっていました。
   まさしく青天霹靂、私は今の今まで黄先生を百分の百の伝統俳句の擁護者でありまた結社の主宰と信じていました。いや僕だけではない句会のほとんどの方がそう信じてきたのです。
  私は胸を撫で下ろしました、台湾唯一の日本語俳句会の主宰で私が尊敬する師匠があの狭い一個人の主張の伝統俳句でなく、もっと広い意味での俳句の真髄を極めていることを知り、また世界で流行っている俳句も決して全部が全部真実の俳句ではなく、日本の方々をも含めて世界の方々が真実の俳句、そして俳句の真髄を求めており、そして世界が尊重してくれている日本発想の<俳句>を日本人は大切にすべきであると言うことを心の底から感じたからだ。   (全文を読む)


point(195)【2015こもろ・日盛俳句祭】   シンポジウム・レポート「字余り・字足らず」   仲栄司  閲覧人数: 380  (2016-01-01)
キーワード:字余り・字足らず;仲栄司;筑紫磐井;伊藤伊那男;西山睦;仲寒蝉;中西夕紀;
2015年8月21日金曜日

【2015こもろ・日盛俳句祭】   シンポジウム・レポート「字余り・字足らず」  /仲栄司
今回のシンポジウムのテーマは、昨年に続き、「字余り・字足らず」でした。司会の筑紫磐井氏から、昨年のシンポジウムの様子が冒頭で伝えられました。昨年はやや抽象的、論理的な内容が多かったようですが、今年はより実作者の視点から論じてもらいたいとの発言があり、実作者として俳壇で活躍中の伊藤伊那男氏、西山睦氏、中西夕紀氏、仲寒蝉氏の四名をパネリストとして迎えて、シンポジウムは始まりました。
まず伊藤伊那男氏からいきなり、俳句は有季定型なのだからそのかたちで俳句は作ればいい、との明快な宣言。人間の体でいえば、「字余り」は太り過ぎ、「字足らず」は夏痩せのようなもの。だから、意図的に健康体を損ねるようなことはしない方がいい、とのこと。「五・七・五」で詠めるならそれをわざわざ崩す必要はない、という明快な主張、いわば原理主義的な主張でした。
 これに対し、司会の筑紫磐井氏から、他の三人のパネリストの言をひととおり聞いた上で、伊藤氏の主張に変わりないか聞いてみましょう、との発言があり、いったん伊藤氏のパートは終了。
 次に西山睦氏。伊藤氏が原理原則で論じられたのに対し、西山氏は具体的な句を提示して、字余り、字足らずの効用を論じられました。字余りの場合は、上五の場合は一句導入への強調、中七の場合はクローズアップ、下五の場合は余韻をたっぷり残したり、念押しする、といった効果が期待できるとの説明。字足らずの場合は隠された一音がある、といったポイントが説明されました。定型を崩すことが俳句の豊かさにも繋がるということでした。
 中西夕紀氏からも、西山氏の主張をさらに推し進めるかのように、具体的な俳句を提示しながら、字余り、字足らずの効果を論じられました。その際、氏がとりあげた例句を定型で作ってみせ、それと比較して論じられました。比較をすることで、定型を崩した方の句が作品として明らかに力があることを示され、あえて定型を崩すことも必要、俳句の可能性を広げると結論づけられました。
 最後のパネリストである仲寒蝉氏からは、最初に氏の主張の立場を表明。俳句の可能性、豊饒性を考えて、氏は字余り・字足らずを良しとする立場で、先のお二人(西山氏、中西氏)の主張と同じ路線でした。具体論では、高浜虚子と赤尾兜子の俳句を比較提示されましたが、圧巻は虚子と兜子の俳句を破調と句跨りの数を年代を追ってグラフ化されたことです。膨大な句数を自身で数え上げ、データ化された点に脱帽でした。また、おもしろかったのは、赤尾兜子が30~40歳の頃が一番破調の数が多く、晩年は定型に収斂していったのに対し、高浜虚子は初期と晩年に破調の句が多くなっていることでした。筑紫磐井氏から、このあたりのポイントは作家論の中で見ていくのもおもしろいテーマではないかとの指摘がありました。
 ひととおり四人のパネリストの主張が終わったところで、ほとんど時間がなくなり、最後にもう一度伊藤伊那男氏に三人の主張を聞いた結果としてどう思うかとの質問がありました。それに対し、伊藤伊那男氏は、有季定型と言ったのはあくまで原則論で言ったまでで、字余り・字足らずを全否定しているわけではない。ただ、字余りや字足らずをあえて無理に作って、リスクを背負う必要はないという立場である、とのコメント。......   (全文を読む)


point(194) 評論・批評・時評とは何か?――堀下、筑紫そして・・・その13… 堀下翔  閲覧人数: 339  (2016-01-01)
キーワード:堀下翔;花尻万博;山頭火;関西俳句なう;聴覚型の詩人;
ちょっと間が空いてしまったので、前回までの話を確認してみますが、まず花尻万博氏の「鬼」50句についてのことがありました。

柊や 街
祀られ鬼
言の間虎落笛する

といった、定型を大きく外れた50句に対して、僕はこれが詩型融合の作品に似ていることを指摘し、また、そのことが、行間の緊張がきわめて弱く、一行の独立性をあやうくしているのではないか、という印象を述べました。

いっぽう磐井さんは、これを〈自由律〉と〈連作〉という二つの視点で説明されました。形式を突き詰めた結果の産物なのではなく、世界最短の詩を確立させたい、という作家意識がもたらしたのがこの『鬼』であること。〈連作〉は、必ずしも作者がはじめに構成したとおりには読者のもとに届いていない、すなわち、不定形なものであること。この二点が、おおまかな磐井さんのお話でした。後者の話をもっと具体的に思い出してみますと、誓子の例が出てきました。句集に5句の連作として収録されている「蟲界變」が、「ホトトギス」初出時には、虚子選を経た4句であった、というくだりです。〈五句を限度とするホトトギスの雑詠欄に投吟する場合には、その規約に基づいて、一聯数句の連作俳句を、一聯五句の連作俳句に構成し直さねばならない〉という誓子の発言は、まさに、連作に行間の緊張が必ずしも求められないことの証左ですね。誓子はこの問題を、一句の完成度で解決しようとしていて、結局この課題は、古今、『鬼』に至るまでの多くの作品が、結局クリアしきれていない部分だと思いますが、さておき、行間の緊張と一句の独立性とは、決して必要条件として結ばれているものではない、ということが分かりました。ありがとうございます。

それから、山頭火の文章、ようやっと確認しました。『其中日記』昭和13年10月4日の記事ですね。以下の引用は『山頭火全集』第9巻(春陽堂書店/1987)より。

よい句はよい人からのみ生れる(よい人とは必ずしも道徳的人物を意味しない)、人間として磨かれ練られてゐなければならない。

作りつゝ味はひつゝ、――制作と鑑賞とは両翼の如し。

句は飽くまで推敲すべし、一句に拘泥するは非。

古池や蛙とびこむ水の音
―――蛙とびこむ水の音
――――――――水の音
――――――――――音

芭蕉翁は聴覚型の詩人、音の世界

なにせ日記なので断片的だし、文脈も判然としていないのですが、この日の日記が、引用部分の前からずっと、「よい句」とは何かということについて雑然とメモしている点から判断して、まず芭蕉の〈古池や蛙とびこむ水の音〉が「よい句」であり、そのよさの中核が「音」にある、ということを山頭火は言っているのでしょう。同じ放浪の詩人として芭蕉に心を寄せていた山頭火が、「よい句」のことを考えていたときに不意に思い出した句が〈古池や蛙とびこむ水の音〉だったのは、いかにもなるほど、の感があります。

磐井さんはこの山頭火の日記の記事を読まれ、古池の句に山頭火が見出したのは〈俳句の本質は沈黙にある〉ということだったとお考えになったようですが、ほんとうに山頭火はこの句に何も残っていないと思ったのでしょうか。むしろ、〈古池や蛙とびこむ水の音〉を何度も何度も洗い出してみて最後に残った〈音〉という言葉の存在感を山頭火は大切にしたいと思ったのではないでしょうか。

この〈音〉と花尻万博の〈小火と蛾〉とが、導き出される手順こそ逆であれ、作者にとって同質の言葉であるのには、異論はありません。言葉を足し、再構成して、〈小火と蛾〉が十七音の俳句になったとしても、その詩情の中核にあるのは依然として〈小火と蛾〉でしょう。でも、その前後の二つの句が、どうしてまったく同じ作品でしょうか。〈音〉はたしかに〈古池や蛙とびこむ水の音〉の中核でしょうが、けっして〈古池や蛙とびこむ水の音〉と同じ句であるわけはありません。〈音〉に凝縮された作者の手ごたえを、〈古池や蛙とびこむ水の音〉に展開、再構成する作業こそが必要です。花尻万博「鬼」に覚える一行のおぼつかなさは、そういった作業を経ていない点にあると思います。そして、その作業は、作者自身の手になされるべきものでしょう。書くことの責任が作家にはありますから。

もう一つ、『関西俳句なう』の話もしていましたね。

磐井さんはここに収録された26名の作家を〈消費的傾向を維持しながら、多義的に見ると自己規律的表現も実現している〉と特徴づけられていました。自己規律的表現、というのが具体的にどういうことなのか、もう少し説明していただきたいのですが、もう一方、消費的であるというのは、僕も、ひしひしと、そして悲痛に感じていた部分です。収められた作家は、半分が「船団」所属であることを抜きにすれば、ほかは「樫」「いつき組」「火星」「晨」「草蔵」「花組」「百鳥」「運河」「狩」「円虹」と多様で、伝統俳句に身を置いている場合も多いのです。それぞれが違う場所で書きながら、ある種のトーンの統一をもって、耐久性のない書き方をしているので、これが時代の空気感なのか、と思わざるを得ません。

耐久性がない、ということの内実もいろいろあって、意味に偏重していたり、句のすがたが似通っていたり、などがそれですが、そのうちの一つに、一句の消費性が、着想の段階から見られる、ということがあるのではないでしょうか。

たとえば、この句などを見てみますと、その成り立ちが既存の時代性の消費にあるというのが分かります。

この声も山寺宏一かき氷 黒岩徳将
夏休み終わる!象に踏まれに行こう! 山本たくや
不揃いのビー玉背の順にして、夏。 舩井春奈

黒岩の句は、声優の山寺宏一(1961-)が、業界のオールラウンダーとしてしばしば取り沙汰されることをうたった句です。山寺といえば1990年代以降、多様な声を演じ分けられる人気声優として、アニメ・洋画を問わず同時代の声優の中で突出した出演本数をほこる人物です。この人を傑士と思わせる伝説めいたエピソードがファンの間ではしばしば語られています。同じ作品の中で複数の役が山寺ひとりに割り振られ、まったく違う声質で演じきったといったものがそれです。有名なところでは、リメイク版『ヤッターマン』(日本テレビ/2008放送)において、ナレーションのほか、何種類もいるメカキャラクターを一人で担当したエピソードなどが語り草になっています。だから〈この声も山寺宏一〉というフレーズを聞くと、アニメファンは大喜びなんです。でも、この句が読者に与える喜びは、詩情というよりも、お笑いの「あるある」ネタですよね。すでに流布している、世代に共有のノリを定型に当てはめている。時代を消費することで一句がなっています。

山本の句だって同じだと思うんです。〈象〉と〈踏む〉といえばサンスター文具が1960年代に放送していた「象が踏んでも壊れない」という筆入のテレビCMがすぐに想起されます。もちろんこれだけでそのCMに結び付けるのは乱暴ですが、この句はさらに〈夏休み〉と取り合わされているので、いよいよ夏という季節の少年性が、筆入のイメージを喚起するでしょう。1988年生まれの山本が過ごした1990-2000年代という時代において、ノスタルジーの対象になったのは、ちょうど彼の親世代にあたる世代にとっての幼少・少年時代ですから、山本の時代のテレビには、ひどく画質のわるい往時のテレビCMが、なつかしの、などと冠されてふたたび映し出されていました。仮にこの句がそのCMを出発点にしていなかったとしても、山本が俳句を書いている時代にあって、〈象〉と〈踏む〉と〈夏休み〉とが癒着した文化的土壌が成立している、というのは言い過ぎでしょうか。この句が〈行こう!〉という勧誘の形で終わっていることも、〈象に踏まれ〉ることの意味性が、この句の書き手と受け取り手との間に共有されていることの暗示である気がしてなりません。とかく、この山本の句を読んでも、分かりすぎてしまう、という印象を受けます。......   (全文を読む)



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